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肝虫の退屈日誌 - 肝虫の20代前半〜学生時代編

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肝虫の20代前半〜学生時代編

もうじき、30歳になります。
というわけで1週間をきったあたりで感慨深くなってきて
なんだか20代をふりかえってみたくなったので、
昔の日記を引っ張りだしながら
色々書いてみたいと思います。
えらく長文ですので、
もし興味のある方はぜひ。

20代の話を話す前に、
大学1、2回生の18、19歳の話をしないと
どうにも先へ進めない感じがするので、
まずは10代後半の話から。


18歳

大阪教育大学入学。
定員割れしてた、という理由で選択。
別に先生になりたかったわけでは全くなかった。

ティーパというの新歓のおかげで
入学早々うわべだけの友達がいっぱいできる。
数年後、廊下ですれ違うと気まずい感じ。
もう名前も曖昧。
春の学祭でオモロイ友達(D君)と知り合い、よく遊ぶ。
このころ聞いてた音楽はミッシェル、椎名林檎、
ゆら帝、サニーデイなど。
三上寛で人生観がちょっと変わる。
大塚寧々似の女の子にちょっと惚れる。
でも趣味の話がまったくできずフェイドアウト。
わりと学校には行ってた。
単位もそこそこ。
焼き肉屋のバイト始める。
実は焼き鳥屋だと思っていたが、
面接に行って、違う・・・と思いながらも採用に。

19歳

夏の終わりに、小学校の時に通ってた塾の同窓会。
そこで再会した女の子に惚れて付き合うようになるも、
5日ぐらいでフラレる。
泣く。
冬の記憶はまるでなし。

傷心のままビレッジヴァンガードで見つけたフリーペーパーをきっかけに
CRJ-westという音楽サークルに参加。
売れている音楽じゃなくて、自分たちが本当にいいと思う音楽を発信したい!
というスタンスで、 演奏ではなく「聴く」のがメインのサークルでした。
色んな大学から音楽好きが集まって
FM OSAKAで音楽かけさせてもらったり、
フリペ作ったり、ライブイベント企画したりしていました。
この時の友達は、今でも大切な仲間となっています。
春休みにはいってすぐぐらいのはなし。

その直後今の妻と出会い、付き合うようになる。
いきなり遠距離恋愛。

このころ大学内ではD君とその周りとしか遊ばなくなる。
このころCONDOR44とかBOATとか知り衝撃。
CRJ影響でライブにも行くようになる。
いつから始めたか忘れたけどフットサルサークルにも行ってた。
サッカー、バドミントン、フリマ、学祭実行委員など
色々なサークルに顔を出すも他は続かず。

焼き肉屋のバイトがなかなか楽しくなってくる。
オープンキッチンで、接客の楽しさと、料理の楽しさに
ハマりだす。

20歳

2回生の後期。
このあたりから学校へ行く回数が減る。
授業に全く興味を持てない。
専門の授業では同級生に
「うめやま君、やる気あんの!?」
って真剣に怒られて、へこむ。
そうこうしてるうちに、、、
朝起きる

サンテレビでやってた昔のドラマ見る(千葉真一の刑事ドラマ)

笑っていいともからごきげんよう

真珠夫人、のちに牡丹と薔薇

2時という時間に驚愕・・・
という生活の繰り返し。
3回生になると、彼女、CRJ、バイトが生活の中心に。
学校の記憶ほとんどなし。

このあたりは6〜70年代カルチャーに傾倒しまくる。
特にプカプカなんかはその筆頭。



他にも、URC関係のフォーク、ニューロックにハマる。
上村一夫の同棲時代を読み、
谷崎潤一郎、坂口安吾、安部公房の文学を読み、
千葉真一の刑事ドラマを見たり、
寺山修司の映画を見たり、
古着屋に通ったり、
四天王寺の骨董市で家具や雑貨を買い漁る。
そんな頃。

21歳

ライジングサンに初めて行ったのがこの年。
初フェスを経験。
料理にかなり目覚め始め、秋に調理師免許取得。

この辺から激動。
自分の将来が全く見えず、
4年で卒業できる可能性も消え、
「社会のレールから外れた」という絶望感でいっぱいに。
教師という仕事に全く興味も持てず、
「やりたいことを見つけろ」みたいな社会の無言のプレッシャーの中で
やりたいことって言われてもわからんよ・・・と迷路に入り、
大学やめたら最終学歴が高卒になるという不安から、
やめることもできず。
そんなことがグルグルして、一時期ひきこもる。
バイトとCRJには行ってたけど。
精神科に通おうと思いながら、
結局行けなかった。

そうこうしてるうちに、
学校をやめよう、と思いながらも
「休学にしとったら学割使えるなぁ。
金はらわんでいいし。就職決まったらやめよ。」
というふざけた考えで4回生になる直前に休学申請。
理由を問われ、とっさに出た言葉が
まさかの「調理師免許の勉強するため」
もう免許はもってたけど、理由らしい理由を捏造。
そんで専門学校でも行こうかと貯金すべく
喫茶店のバイトも始める。
朝7時から昼2時まで喫茶店、昼3時から夜12時まで
というハードワークな日々。

このころ、マーガレットズロースの
「斜陽」の入った「こんな日を待っていたんだ」が出る。
この曲は僕の人生で一番大切な曲かもしれない。
この曲で何度泣いたかわからない。



22歳

学科の先生からコース変えて復学しないか、というお誘い。
中学校の社会の免許から家庭科に。
驚きながらも行き詰まってたので、そこに光を見いだす。
「それはおもしろそう!」と。
というわけで半期の休学を経てあっさり復学。
でもほとんどの単位が取り直しだったので
この時点で最低6回生卒業が決定。
でも学校に行けど友達は卒論などで
ほとんど学校に来ないため孤独な日々。
「あ、今日一言も発してない!」
とだれもいない帰り道でボソっとつぶやいてみる。
それでもかなりまじめに学校に行く。
最後の方にDMBQのTシャツ着てたら学科の後輩に声かけられる。
この後輩が、今は同僚の園田さん。
この時、声をかけてくれてなかったら孤独に耐えれてなかったかも。
僕の命の恩人です。

そして春にCRJは卒業。

孤独をまぎらわせるために(それだけでもないけど)
映画研究会に5回生から入部。
すると更に先輩がいてびびる(笑)
でもおかげでとても楽しい学校生活がよみがえる。
このあたりから映像に手をつける。
初めて作った作品は、
杉良太郎「君は人のために死ねるか」のPVでした。
CMの映像を勝手に使って、無茶苦茶な編集を。
上映会では結構ウケた。
授業もまぁまぁ、順調。

23歳

この頃DTPに興味を持ち、DTP検定2種受けるも不合格。
でも次の試験で合格。
この頃そういう業界に進みたかった。

夏休みにあった映画研究会の上映会、
なぜかテーマが「大人」に。
ほんとのテーマは「エロ」なんですけどね。
というわけで、AVの合間にえなりかずきがコメントするっていう
ふざけた作品を作ったら、これも結構ウケた。
「渡る世間は〜」からいただきました。
最っっっ低な作品でしたけどね(苦笑)
見たい人は言ってください。
この後、この上映会が原因で、活動停止処分に(笑)

ゼミの先生と喧嘩。
7回生突入なのか!?と思われるも
他の先生に助けられ一命を取り留める。
急ピッチで卒論に着手。
テーマは「坂口安吾の日本論」。

バンド「砂日傘」結成。

24歳

夏に日替わりマスターのバー
SINGLESでマスターデビュー。
1回目はライジングサンの特集でした。懐かしい。

9月には教育実習に。
映像を駆使してふざけた授業をし、好感触。
なぜか無遅刻、無欠勤。
中学生にミシンの使い方を教える。

秋、前期で絶対落としてはいけない単位をひとつ落とす。
後期で代わりを拾えないため7回生突入正式決定。
とびきりヘコむ。
でもせっかくできた時間で資格を取ろう、
としているときに生涯教育に出会う。
目からウロコ。

これまで色んなことに興味がありすぎて
色んなことに手を出してきたけど
どれも極めるぐらいまで突き詰めたわけじゃないし、
悪く言えばどれも中途半端。浅く広く。
どれか1つを仕事として選べと言われても
どれが自分のしたいことなのかは
よーわかりませんでした。
しかし、教育実習に行った時に指導教官に
「教師は今までやってきた経験を全て活かせる仕事」 と言われ、
言われてみればまさにその通りで、
実習中にも自分の色んな趣味を
あれよこれよと駆使して授業した結果、
子供らもかなり興味を持ってくれました。
勿論授業の内容にも。
この言葉を言われてから漠然と思ってたんですが、
色んなことを中途半端にやってることは
決して欠点なんかではなくって、
単に色んなことをやってるというだけのことに過ぎない。
ただ、それの中の1つの分野だけで見たときに欠点になって、
色んな引き出しを求められる時に利点になる。
考え方や使い方次第なんだなと。

そんな中、ネットでアップルのスティーブ・ジョブスの
スピーチを発見。
当時の心境にものすごく響くものでした。
それが以下2つの抜粋。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

君たちの時間は限られている。
だから自分以外の他の誰かの人生を生きて
無駄にする暇なんかない。
ドグマという罠に、絡め取られてはいけない。
それは他の人たちの考え方が生んだ結果とともに
生きていくということだからね。
その他大勢の意見の雑音に
自分の内なる声、心、直感を掻き消されないことです。
自分の内なる声、心、直感というのは、
どうしたわけか君が本当になりたいことが何か、
もうとっくの昔に知っているんだ。
だからそれ以外のことは全て、二の次でいい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

もちろん大学にいた頃の私には、
まだそんな先々のことまで読んで
点と点を繋げてみることなんてできませんでしたよ。
だけど10年後振り返ってみると、
これほどまたハッキリクッキリ見えることもないわけで、
そこなんだよね。もう一度言います。
未来に先回りして点と点を繋げて見ることはできない、
君たちにできるのは過去を振り返って繋げることだけなんだ。
だからこそバラバラの点であっても
将来それが何らかのかたちで
必ず繋がっていくと信じなくてはならない。
自分の根性、運命、人生、カルマ…
何でもいい、とにかく信じること。
点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで
必ずひとつに繋がっていく、
そう信じることで君たちは確信を持って
己の心の赴くまま生きていくことができる。
結果、人と違う道を行くことになってもそれは同じ。
信じることで全てのことは、間違いなく変わるんです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

これまでの人生を振り返ると
色んな「点」が一気にドバァーと繋がる。
皮肉にも「ダブり」という出来事のおかげで
ちょっぴり先が見えた。
スピーチは検索すれば、たくさん出ると思います。
よかったら。

秋に映像でからほりまちアート初出展。
これがその時の作品。

卒論完成。

7回生に突入し、5年半働いた焼き肉屋をやめる。
プックオフ、近鉄文化サロンなどでバイトを始める。
学校へは必死で行く。

からほりまちアートに運営スタッフとして参加。
実は2002年に初めて遊びに行ったときから
ずっと運営に参加してみたかったイベント。
空堀のまちなみも好きだったけど、
ゲリラで出展してた地元のおじいさんが、
来場者の人とすごく素敵な笑顔で話しているの見て、
アートが単なる消費されるものではなく、
コミュニケーションのツールとなっているところを
目の当たりにして、
こんなイベントを作るところに是非関わりたい!と思ったのがきっかけ。
1年目はがむしゃらに、やりました。

25歳

卒業決定。
去年落とした単位も無事に取れ、
9月卒業。
社会教育主事の資格にはあと3つくらい単位必要なので
バイトしながら、科目等履修生として学校に。

10月、運営メンバーとして初めての
からほりまちアート開催。
燃え尽きる。

冬頃から、からほりまちアートのメンバー経由で
DAN計画研究所というまちづくりの会社に
アルバイトで行くことに。
そこで、調査の仕事をしている最中に
A′ワーク創造館の求人をたまたま発見。
直感で「これ!」と思って応募。採用。
大学の試験が終わると同時に、無事就職。

肝虫の20代後半〜社会人時代編へ続く・・・
肝虫の20代前半〜学生時代編より、続き。

25歳

2月1日付けでいよいよ社会人に。
21歳くらいの頃は自分が社会人になれている姿なんて
想像もできていませんでした。

職場のA´ワーク創造館は大人向けの教育機関で、
ワード・エクセルなどのパソコン講座や
HP、グラフィックデザイン、CAD、経理などの
幅広い講座を実施していました。
その他にもニート、ひきこもり状態の若者の就労支援や
NPOの立ち上げ支援なんかもあって、
このあたりはかなり関心の高い分野だったので、
よくもこんな自分の関心のストライクゾーン
ど真ん中のところに入れたな、と今でも思います。
まぁでも、今だからそう思うわけで、
「自分のやりたいことって何だ!」って時期には
これを提示されてもきっとピンときてなかったと思います。

そんなわけで1年目はよくわからないまま、
与えてもらった仕事を色々こなす。

からほりまちアートのスタッフは2年目に入り、
渡辺さんと一緒に副実行委員長になることに。

26歳

自分が職場で企画した初講座は、
大学生を対象にした「NPOという働き方も面白い!」
というものでした。夏。
講師に宝塚NPOセンターの森さん(当日は病気で別の方に)、
森ノ宮青少年会館の当時の館長だった松崎さん、
NPO法人みらいずの桝谷さんという
改めて思うと豪華な顔ぶれ。
その割りに集客はボロボロしたけど。
個人的には面白かったんですけどねー

この頃から、主にNPO関係の講座と
若者就労支援の講座を
色々企画していくように。

そして9月に引越し。
7年住んだ四天王寺から、空堀へ。
からほりまちアートの打合せの時に、
たまたま空き家になっているのを見つけて、
興味本位で家賃を尋ねたら、
とんとん拍子で勝手に(!)話が進み、
その数日後に、見に行ってた。
そしたら2畳の変な部屋があって
無性に気になってしょうがなかったことと、
縁で繋がった家だから、
悪いことはないだろう、という変な確信で
お金もないのに、このタイミングしかない!と思い
親にお金を借りて勢いだけで引っ越す。

昔の日記を見たら
「2畳研究会」っていうのを立ち上げてた記録が。
色々アイデアがあったらしい。
結構忘れてる(笑)

そして引越しには色んな人が手伝ってくれたのと、
僕の段取りの悪さでだいぶ迷惑をかけてしまいました。
ありがとうございました。

そして秋には副実行委員長として初めての
からほりまちアート
今年の大きな企画は
「からほりナイトクルージング」という中夜祭。
お寺で色んなイベントをしたことと、
こどもの作った灯ろうの展示。
これはやってすごくよかったけど、
内部は大変なことになっていた。
またしても自分の段取りの悪さで、人に迷惑を。
書きながら情けなくなってきた・・・
許して付き合ってくれてるみなさん、本当にありがとうございます。

この頃、本屋でたまたまシブヤ大学の本を発見。
衝撃を受ける。
この本をきっかけに「2畳大学」の名前ができ、
構想がかなり具体的になり始める。
シブヤ大学を大阪でやりたい・・・
でもこれをこのまま大阪でやってもうまくいくわけないし、
「大阪らしさ」を足さないといけない・・・
ということで考え抜いた末に思いついた「大阪らしさ」が、
「探偵ナイトスクープ!!」
ということで、2畳大学は
「シブヤ大学」+「探偵ナイトスクープ」÷2という構図なんです。
ちょっとした、人によってはどうでもいい疑問や関心ごとを
徹底して追及するという、この姿勢は大阪人のDNA。
それをシブヤ大学と言うスタイルに当てはめました。
この頃から、色んな人に具体的に相談するように。

あとこの頃からファシリテーションに関心を持ち始める。
自分でワークショップをしたり、
司会をしたりすることが増えてきて、
中野さんの本を読んだりし始める。
そんな中、空庭さんに紹介されて、
コミュニティファシリテーション研究所
ノリさんの講座に初めて参加。
今まで考えたこともない視点がどんどん出てきて、
しかも納得のできるものばかりで
かなりの衝撃を受ける。

この後、年度末の事業報告に忙殺された後、
5月の末に四天王寺の骨董市で
「これしかない!」というサイズのちゃぶ台に出会う。
即購入。

そしてこれを機に、2畳大学が開校。
6月にオープンキャンパスを実施しました。
ロゴはSINGLESの運営メンバーでもあった小嶋さんが
デザインしてくれました。
これがとても好評。

27歳

20歳くらいのころは
「俺は27歳で死ぬんだ」って愚かなことを思ってたけど
やっぱ死んでませんね(笑)
「27歳」をテーマに、SINGLESでマスターやりました。
でも当時はちょっとだけ、
あと1年生きれるかな、とかまだ思ってました(笑)

2畳大学の動きも活発になり始め、
伝説のカレー学科が始動。

あとこの頃から、「○○の話をしてください」
というお話をいただくことがちらほらと。
からほりまちアートの事例紹介だったり、
2畳大学の発表だったり。
ちょっとずつ前で話すのに慣れてくる。

からほりまちアートも、
運営スタッフになって3年目。
スタッフも増えて、
実働よりも組織の運営の方に比重が増えるとともに、
こういった非営利組織の運営に関心も出てくる。

1月には初めての「自分の仕事を考える3日間」に参加。
この時に聞いた言葉が、結構ずっと残ってる。
1つは「閃」という感じの成り立ちの話。
「門」の中の「人」は鍵で、
何か閃くときは、
元々自分の頭の中に色々あるものが、
(頭の普段閉まっている)門が開いて、それらが出てきて「閃く」。
自分の中にないものは絶対出てこない。
その時に、人が鍵になって門が開くんじゃないか。
だから「門」の中に「人」なのかも。
これは正確な由来ではなく、ある人の推測。
だけど、納得できる内容。
これが嘘か本当かなんて、別にどっちだっていい。

もう1つは、何かを創るときは60%を目指す、
っていう雑誌編集者の方の話。
100%を目指すと、どれだけ頑張っても100%にしかならず
自分のイメージの範囲を超えないけど、
60%にして、40%の余白を残せば、
予想外のことが起こったりする余地ができて
200%になる可能性が出てくる。
っていう話。
こういうプロセスは無自覚にやってたところがあるけど、
改めて「なるほど!」と思った。

仕事では、この仕事の喜びをどんどん感じ始める。
なかなか仕事の決まらなかった人の、
仕事が決まったところに立ち会ったり、
0が1になった瞬間を見たり、
「こうなりたい」とひたむきになっている目を見たり。
そんな瞬間に立ち会える仕事ってすごい!
と、ますます仕事にのめりこんでいきました。

この頃から、コミュニティファシリテーション研究所
ノリさんの講座を大阪で企画し始める。
待っててもなかなか大阪に来てくれないので、
それなら呼んじゃえ、ということで
オーガナイズをはじめる。

3月には2畳大学の合宿。
面識のないメンバーで集まって、
それから何をするかを決める、という不思議な合宿。
でもこれがめちゃくちゃ面白かった。
さっきの「60%で企画したら200%になった」という実例。
でも、この経験は言葉で説明できない・・・

東京に行った時にたまたま入った古本屋で、
後藤繁雄さんの「僕たちは編集しながら生きている」という本に出会う。
一度スルーしながら、
やっぱり気になって手にとって、思わず購入。
僕は昔からものを創ったり、デザインしたりが好きだったんですが
自分は1からものを作り出すのはやっぱり向いてない、
という挫折を何度か経験しました。
でも、目の前にあるものを使って何かを創るのには
結構得意だったし、
逆に「自分にはこれしかない」
と思えるようになりました。
編集者っていうのは、僕のアイデンティティの1つです。
そういうところに、
そのアイデンティティの背中をそっと押してくれるような
そんな本でした。
僕にとってとても大切な本です。
ちなみに妻は全く逆。
そこがうらやましくもあり、悔しくもあり。
そういう意味で、自分にないものをもっているので
尊敬しています。

3月いっぱいで勤めていた財団法人が解散に。
でも新しい組織ができ、そちらに転籍。
でも仕事は一緒なので、特別変化はなし。
ありがたいことに。

4月からワークショップデザイナー育成プログラム
大阪の1期生に。
青山学院大学と大阪大学の共同事業。
内容うんぬんよりも、
ここでも大切な仲間ができた。
それがありがたい。

この頃から、職場で「NPO若手飲み会」が始まる。
2ヶ月に1回、NPOなどの組織の代表や事務局長などの
事業をメインで回している20〜30代の職員で
ジャンルを問わずに集まって
意見交換したり、ネットワーク作りをしたり、
という主旨の飲み会をスタートしました。
福祉、教育、まちづくり、アートなどなどジャンルレスに集まって
とても楽しかったので、
これを機に2ヶ月に1回のペースで継続中。

この頃、SINGLESの4期終了に伴って
運営メンバーも終了。
お店の運営は5期のメンバーへと。

28歳

やっぱり27歳では死ななかった。

ワークショップデザイナー育成プログラム修了。
授業の内容自体は自分にとって物足りなかったけど、
このタイミングでこういう授業を受けれたことは
自分の中の曖昧だった「ワークショップ」を
整理することに繋がって、非常によかった。
そして何より、多くの仲間に出会えた。
随分自分を拡張させてもらえた、と思っています。

10月に結婚。
家の近くの高津神社にて。

11月には友人向けの結婚パーティー「2畳祭」

これまで色々振り返ってきましたが
やっぱり自分で状況を打破してきたことなんて
ほとんどなくて、
誰かに助けてもらいっぱなしの人生なので、
祝ってもらうよりも、
結婚ができてしまいました!って恩返しの会をしたくて
「結婚パーティー」ではなく、
「2畳祭」という文化祭を開催することに。
周りに色んなスキルをもった人がいるので、
その人たちを紹介できて、
そこでまた新しいつながりができれば、
という想いのもと、
やっぱり段取りが悪くて色んな人に迷惑をかける(苦笑)
ほんとうにすみません・・・
でも100人くらいが集まってくれて
たくさんの人に協力してもらえて、
とても楽しい文化祭(結婚パーティー)になりました。
この日「あ、もう死んでも悔いがないわ」と
心から思いました。

結婚式、からほりまちアート、結婚パーティーと
大イベント3つが終わり、
しばらく廃人のようになり、年が明ける。

ゆらゆら帝国が解散。
1番好きだったバンド。
青春が終わった。

空庭さんからシェアオフィス始める、とのお誘いがあり
それに乗っからせてもらって
セカンドオフィス開設の準備に入る。
こんな変な誘いに集まってくれた方が10数名に。
集まって色々話しながら進めていきました。
そして5月に「オフィス2.0」として開設。
とりあえず、どうなるかわからんけど
1年やってみるというのを目標にスタート。
メンバーはWebデザイナー、プログラマー、役者、
パフォーマー、美術の先生など様々。
そんな職種の違うメンバーで、
それぞれが自分の仕事を確立させるべく、
色んな実験中です。

妻のお父さんに、ギターをいただく。
GibsonのSG。
ゆらゆら帝国の坂本さんも使ってる、あのギター。
世界で一番好きなギター。

職場では「社会的事業マネジメント科」という
職業訓練が始まる。
自分のこれまで仕事で培ってきた経験やネットワークを
総動員させて組み立てたクラス。
すごく個性的で面白いメンバーで
6ヶ月間のトレーニング(お互いに、笑)の幕開け。

からほりまちアートでは、
今年から説明会の代わりに、
からほりを知ってもらうためのワークショップをしよう、
ということで様々な企画をする。
改めて自分の住んでいるまちのことをよく考えるようになる。
そういえば、引っ越す前は「リノベーション」なんて言葉が
頭をよぎったりしていたんですが、
結構早い段階から見た目はどうでもよくなる。
そもそも、この年代よりも
建物の見た目に関して言えば6〜70年代の方が好きだ(笑)
空堀に住み始めて、
見た目のことよりも、まちのコミュニティのことが面白かった。
家の前を掃除する、なんて文化は自分にはなかったし、
(マンションは共益費を払っていて業者が掃除していた)
回覧板が周ってきたことにも感動したし、
雨が降ってくると近所の人が「洗濯物入れや〜」と教えてくれたり、
それ以外にも、この距離感から生まれるコミュニティの感じは、
なんだかとても新鮮で、居心地がよかった。
それがこのまちの楽しさだった。
でもやはりマンションは乱立するし、
高齢化している商店街も、体調を悪くして閉める店もちらほら。
跡継ぎは勿論いない。
自分はこのまちに住み続けたい。
だったら、自分が住みやすいまちにするための1票を
何かしら入れていないとダメなんじゃないかと思った。
それはどんな1票でもいいと思うんだけど。
でも0か1かは、大きく違う。
第10回のからほりまちアートには、
「住人」という目線での参加だったので、
面白いこともあったし、違和感もあった。

29歳

このあたりから月1回くらいのペースで
僕自身への仕事が入り始める。
高校での就職講話や、
からほりまちアート、2畳大学の事例紹介、
NPOについての授業、
ワークショップの授業などなどの講師系から
他にもイベントのディレクションなど、幅も広がる。
自分でもノリさんのファシリテーション講座を企画したりと
そっちも板についてくる。

第10回からほりまちアートが開催。
そして、からほりまちアートの歴史に幕が。
名残惜しい気持ちも勿論あるけど、
新しいことが始まりそうな予感もあって、
複雑な心境。
最後だったけど、仕事が忙しくなってきて
あまり動けなかったのが正直なところ。
それは悔しさが残っています。

職場では半年間の社会的事業マネジメント科が修了。
チューター的な立場だったけど、
この半年間にすごく鍛えてもらった気がします。
最後には事業計画の完成に向けて
かなりの数の個別相談をやった。
その中で思ったのは、
結構カウンセリングって向いてるんじゃないか、と。
話をしながらモヤモヤしたものの
輪郭を一緒に書いていくような作業がとても楽しかったし、
実際に手ごたえもあった。

シェアオフィスの「オフィス2.0」も軌道に乗り始め、
11月には文化祭を開催。
みんなの企画を1つにまとめて、「文化祭」としてパッケージ。
全部集まると、なかなか面白い企画になった。

12月には、2畳大学で絵本づくりのワークショップを実施。
講師はたあつこ=かおりさん。
これがまた、いいワークショップだった。
中身に関してはたあつこさんのおかげなんだけど、
このワークショップの企画から実施までのプロセスが、
自分にとって大きな自信になった。
カウンセリング、プログラム企画、交流の場(サロン)、
この3つがこれからの自分にとって大きな柱になりそう、
という予感、というよりは手ごたえを得る。

こういう3つの柱を軸にした屋号が欲しくなってきたことと、
自分の中で商売っ気が出てきていることに気がつく。
今やっていることを
「自分の仕事」として確立させていきたい、
そんなことを明確に思うようになりました。

そして年が明けて2011年。
新しいプロジェクト「ナローワーク」を発足。
これは屋号に近い感覚。
まだ全部をカバーできていないけど、
基本的には、自分のスタンスとしては
「王道ではない狭い(narrow)道」としての
就職や仕事づくりをしたい人の応援をしていきたい(自分含め)
そんなスタンスでいろいろやっていこう、
そんなふうに決意しました。

そしてもうすぐ30歳。
こうして振り返ってみると、
20代の前半は無計画に、思うまま色々やってましたね。
でも確実にその20代前半になってたことが下地になってて
今の20代後半の仕事やその他のいろいろの動きは
その下地の上になった実のようなもので、
おそらくこれからこの実をどう使っていくか、
というのが待っているんでしょうか。
誰かにあげたり、売ったり、増やしたり。
そんな30代になるんだろうなぁと思っています。

今が人生で一番面白いです。
ここまで育ててくれて、本当にありがとうございます。

暖かく見守ってくれた親と妻には
頭があがりません。
ありがとう。

辛いときに支えてくれたみなさん、
色々迷惑かけられたこともあったと思いますが、
ありがとうございました。

そして最後まで読んでくださった方、
ありがとうございました。

 
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